行こう行こうと思ってた安西水丸展がいつの間にか終わっていて行けずじまいだったので村上春樹の「やがて哀しき外国語」を引っ張り出して読み返すと氏の気の抜けた絵がぽつぽつあっていい感じでそして何より話が面白い.
年をとって外国語学習の優先度が下がって気が入らなくなってしまう,とかもともと喋るのも得意じゃないので語学学習のセンスがない,とかスペイン語を習いにスクールに行ったら学ぶ意欲も努力もしないのにやたら実力を誇示したがるような困った生徒が一緒で消耗を感じるから十日で辞めた,とか.
大量の面白いエッセイや小説を正しい論理と構造で饒舌に記述できる村上さんでさえ専門領域(?)の一つである語学の学習についてこれほどのやるせなさというか諦念みたいなものを感じているのは全く意外だ.まぁ小説を書くのと語学の学習は完全に別物かもしれないけど.
村上さんは語学の学習について次のように書いている.
僕の体験から言って,語学というのはある程度スパルタンに「ついてこられない奴はおいていく」というくらいの厳しさでやらないと,教えられないし,覚えられないからだ.
これは結局あらゆる学習全般に言えるのではないかと思う.特に自分は語学については日本語しか喋れないし(日本語ですら怪しい)何か学問を一つでも高度なレベルで習得しているとは言えない.
そして,スパルタンな学習経験というものも無い.つまりそういうことなんじゃないだろうか.努力なしには何も積み上げることはできないし,努力を継続するにはモチベーションの維持が欠かせない.少なくとも,学習センスのない自分にとっては.
また,学問それ自体を目的化してしまうと終着点が見えなくなってしんどいのかもなと思う.素養もない努力もしない自分のような人間にとっては身近なところで目的を設定してその手段として学問の周辺を習得してうまく使っていく…というやり方が合っているというかそれしかできないというか.
多分どんな学習でも”やがて哀しき”宿命にあってでもそれを知るには少しスパルタンな気持ちで取り組んでみないといけないのだ.
じゃないと進捗が出ないから….